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シュレディンガーの

ゲームの思い出

皆様は「シュレディンガーの猫」というものをご存知でしょうか。

昨今はフィクションの世界で主に取り沙汰されることが多い量子力学の思考実験です。割ともう使い古されてきている感すらあります。

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概要を簡単にご説明しますと、

 

量子は物体を構成する(現在のところの)最小単位(ミクロ)です。

そして、量子は「様々な状態が重なりあった」状態で存在しています。

例えば、A地点に存在する可能性が10%、B地点が10%…という風に、「人間が観測する」までは可能性が雲のように「重なって」存在し、観測された時点で一つに収斂します。

難しく、マクロ(大きな)視点ではなかなか考えにくい概念ですが、「そういうものである」としか言いようがないのです。そんな曖昧なものが集まってこの「世界」は存在しています。

 

量子的反応のひとつが現れた時、不透明な箱の中に毒ガスを吐く装置を作り、猫を入れて蓋を閉めます。そうした場合、毒ガスが出る可能性と出ない可能性は50%づつで重なりあい、蓋を開けて「観測」するまで猫は「半分生きていて半分死んでいる」奇妙な状態で存在することになります。人間が「観測」した時点で猫の生死は決まります。

しかし、箱の外で生きた猫と死んだ猫が「重なりあった」状態で観測されたことはないし、人間が「観測」した時点で結論が収束するのなら、実験という行為自体が欲しい結果を得るためのもので、正しい結論が得られないのでは…という問題です。

 

しかし最近は実は量子の状態を決めるのに人間の観察は必要ないよ説とかあるらしいですね。ですが、面白い題材には変わりありません。

ちなみに猫の名前がシュレディンガーではなく、この思考実験を提唱したのがシュレディンガーさんです。

 

そんな奇妙な物が集まって出来た私たちはそんなに曖昧なの?人間の意思は世界にどこまで影響するの?という哲学にも発展していくわけです。そういう私も昔中二的思考で量子力学をかじったことがあってな…(高校がデザイン系で物理の授業もなかったのに)。

こうしてみると量子力学はなんだか訳の分からない学問のように見えますが、実は電子機器などで実際の生活に結構影響が大きいです。

ここまで前フリ。

 

運命の交差点

 皆様は「街」というゲームをご存知でしょうか。

街 ~運命の交差点~ 特別篇

街 ~運命の交差点~ 特別篇

 
街 運命の交差点

街 運命の交差点

 

 「弟切草」「かまいたちの夜」で、SFCで「サウンドノベル」というジャンルを確立したチュンソフトが当時の次世代機、セガサターンで送り出したサウンドノベル第三弾。後に別プラットフォームでも発売されています。

当時は実写の人間を使ったゲームというのはぶっちゃけクソゲーが多く(SFCまでは画面解像度や技術の問題で、実写を描画するとキモかったというのもあります)、残念ながら当初の売上はそれほどではなかったようですが、今現在も「ノベルゲーの最高傑作」との呼び声も高い隠れた名作です。

私も、各ジャンルで自分史上最高の一本を選出しなさいと言われたら、ノベルゲーではこれを選びます。

 

そして、この「街」の中に「シュレディンガーの手」というタイトルのお話があります。Wikipediaからあらすじを引用しますと

市川文靖はテレビドラマのプロットライターとして成功しているが、その作品は低俗極まりない上に自分が寝ている間に「誰か」が書き起こした身に覚えの無いものであった。市川は自分の作家としての良心を守るため、テレビ業界に一石を投じるため、最高傑作を書こうと作品に取り掛かる。

ゲームではこの市川をダンカンが演じ、ほぼ静止画ながらもその鬼気迫る演技は迫力がありました。また、沈鬱な文章、Tipsと呼ばれる単語補正により、独特の雰囲気が全編に漂う物語です。

これは「街」自体の弱点でもあるのですが、ギャグを含む話を次々ザッピングするために一本の物語としては若干統合性が怪しく、文章に独特の癖があるので合わない人は合わないと思います(特にオタクが主人公のシナリオなど)。

 

ただ、この「シュレディンガーの手」はそれらを吹き飛ばして余りある不思議な魅力がありました。

話自体は統合失調気味のおっさんが妄想に蝕まれ、女に振られ、ネタバレですがラストは破滅の道を転がりきった市川は唐突にトラックに跳ねられて多分死んでしまう(要反転)という、要約するとなんだこれという感じなのです。

しかし「創作する」、そしてそれが「仕事になっている」人には中々感慨深いお話です。特にラストは…なんだろう、ものすごい力技で終わらせているのにちょっと神がかってすらいて、鳥肌が立つんですよね…。

 

そして、私はこのゲームで「シュレディンガーの猫」というものを知ったのでした。

やっと前半とつながった!

当時はまだ有名ではない概念だったと思います。ここからシュレ猫はマンガアニメゲームでよく使われるようになった気が。

 

哲学を作ったゲーム

ということで、「街」は私の哲学を作ったゲームです。

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

 

私は以前書いたように、「観測するならばその人にとっては存在する」というスタンスで幽霊や宇宙人を考えていたり(多分これをもっと上手く説明しているのが「姑獲鳥の夏」の京極堂だと思います)、現状や自分を変えたい時に「この世界は自分が観測した結果である」などと考えたりします。

また、それを観測する脳は所詮タンパク質、ナマモノであり、脳内分泌とか身体の方の調子とか気分とか、適当に色々なことで左右されるので「認識上の世界(そして我々は生きている限りここから抜け出すことは出来ません)」はそれほど確固としたものではない、とか。

脳ありきだけど、脳もそんなに信用出来ないよ!ってことですね。

 この私の考え方は量子力学、ひいてはこの市川のシナリオからのものなのです。

 

あ、もう一つあった。こちらの小説も影響受けました。

 「可能性の雲」の話はどの巻だったかな…?

こちらは表紙を弘司さんが手がけた新装版で、古い版の方を私は読みました。古い方は1988年発売ですね。

投げやりな紹介に思えるかもしれませんが、こちらをきちんと紹介しようとしたらクトゥルフとかTRPGとかまた色々書かなきゃいけないことが増えるので…。それはまた別の機会に!

 

しかし、姑獲鳥の夏といい、この頃って結構そういう考え方が流行った時期だったのかも…?

 

やっぱり大事なことはみんなゲームから教わった

そんなわけで、私の中でつながっている「シュレディンガーの猫」「街というゲーム」「哲学」というお話でした。

こうして改めて考えてみると、やはり20歳以前に触れたメディアにはかなり影響されていることがわかります。

今の若い人の人生をいい方向に向けられるような衝撃を与えるものを、我々おっさんおばさん世代は作っていかなければならないなと思いました。